フランスのパリ近郊、フォンテンブローの森の中に、1830年代〜1870年までの間、ルソー、ミレーやコローなどの多くの画家たちがそこに「自然」や「住民」と共に寝起きをして作品をつくり上げた地名です。
その名をとって後年、パリを中心に当時の画壇やアカデミズムのこと「サロン派」といい、ミレーら自然の中で芸術活動を行う画家たちのことを「バルビゾン派」と名付けられています。
ルソー、ミレーやコローからモネに至るまでのバルビゾンの哲学は「自然」と「芸術」、「労働」と「芸術」ということの三位
一体が新しい芸術の方向性であると説いたことにあります。これは後の自然の光の中での芸術の可能性を追求した「印象派」の前哨ともなる絵画史上の大きなムーブメントであります。
当時我が国に於いて、その最も新しい芸術運動に触れた岡倉天心は、アカデミズム一辺倒の文部省や東京美術学校の考え方を旧弊として、新しいこのバルビゾンの運動を芸術本来の運動であるとして、その理念の姿を茨城県の五浦(日本美術院の移転先)や、妙高高原の赤倉地域に求めたと言われています。
特に妙高は天心物故の地であり、彼の生涯の哲学というべき自然と芸術、東洋と西洋の融合という考え方は、この地でますます膨らんだことでしょう。しかし天心のこの考えはついに具現化されず彼の物故と共に消え去っていきました。
このような意味から、本来の意味での「自然と芸術」の融合を求めた先人達の意志を21世紀に本格的に実現し、さらには芸術家だけではなく、地域住民が主体となった「文化村」おこしに発展するこのシンボルとして「バルビゾン」という名前を付けました。